しんぶん赤旗2006年4月3日

水俣病50年 沈黙を破って 上

自分がまさか患者とは


 公害の原点といわれる水俣病の公式確認から五月一日で五十年。いまなお、体のしびれや感覚障害、手足をうまく動かせない運動失調や視野狭窄(きょうさく)、言語障害に苦しむ多くの被害者がいます。

 国が多くの患者を切り捨てる認定基準を変えようとしないなか、三千七百人が水俣病認定の申請に立ち上がりました。(山本弘之)

 一昨年の最高裁判決後に認定を申請した患者でつくる水俣病不知火患者会が昨年新たに起こした裁判は、原告が千人になろうとしています。

 これまで水俣病だとは知らされずにいたり、言い出せなかった人たちです。
 「自分が水俣病だとは信じられなかったし、いまでも信じたくない」

 熊本県の旧御所浦(ごしょうら)町の山口広則さん(51)は、居間で語り始めました。不知火患者会の副会長(原告団副団長)をつとめます。建設業で働き、妻と三人の子がいます。

 三月二十七日に合併して天草市となった御所浦町は、入口四千人ほど。不知火海沖の静かな離島の町です。水俣からフェリーで一時間。青い海に、ハマチやタイの養殖いけすが浮かびます。

 山口さんは、子どものころから「からす曲がり」(こむらがえり)があり、いまは足がつって一晩に三回も目を覚まします。

これが水俣病

 一年前、親類の強い勧めで水俣病検診を受けたものの、「やっぱり水俣病ではなかったでしょう」ときいたほど。
 返ってきた医師の答えは「これが水俣病なんです」。

 山口さんは「見た目は普通の人と変わらなくても、メチル水銀によって脳が損傷を受け、感覚障害を起こす。それを知ったときには、びっくりした。テレビで見た、けいれんを起こしたり、言葉もしゃべれない劇症型の患者が、水俣病だと思っていた」と言います。

 山口さんは、姉が「手足がしびれる」といって一九九五年の政府解決で救済を受けたときを振り返ります。「なんでおまえが水俣病なのかと言った。いま考えると、なんて申し訳ないことを…」

 水俣病の病像を学ぶと、あてはまるものが次々に思い出されました。
――手の甲をつまんで内出血するほどつねっても痛くない。
――中学時代、剣道の練習で、胴を打たれて脇腹が青あざになっても、「痛くないので、おれは体が強かと思っていた」。
――中学の時に左手中指先をなたで切り落としたときもまったく痛くなかった…。

 「からす曲がり」も、同級生みんなに起きていて、おとなになってから手足のしびれが出ても、父や母、親せきに同じ症状があり、「年をとるとそうなるものだ」と思っていました。

 山口さんはいま、一年前までの自分を思いながら、沿岸住民の一人でも多くに検診を勧めています。

汚染魚食べて

 チッソが水銀をたれ流し続けていた一九六〇年代、イワシ漁が唯一ともいえる島の産業でした。
 山口さんも、中学の時から漁を手伝いました。夏休みはほぼ毎日、ふだんは土曜の夜、海に出て、火をたいてイワシを囲み、明け方に人手で網を引き揚げました。島の道路は、チリメンにするため干した魚で埋まり、人の歩くところだけが細長い線となって続いていました。

 イワシ以外の大きな魚は、タイでもタチウオでもすべて島民で分け合いました。
御所浦だけでなく、当時の漁村の当たり前の光景です。

 肉はもとより、卵さえ貴重な時代です。タンパク源は、どこでも魚でした。漁村だけでなく、水俣でも農村でも同じでした。

 「生きるために食べた魚が、水銀に汚染された魚だった。国・県は、水俣病が発見されたとき、なぜ放置したのか。そしていまもなんら救済しようともしない。年々症状はきつくなる。一生つきあわなきゃならんことをどう思っているのか」(つづく)

水俣病の行政認定制度
 公害健康被害の補償等に関する法律(公健法)にもとづき、熊本、鹿児島両県の認定審査会が患者と認定すると、補償や医療給付などが行われます。政府が一九七七年の通知で示した認定基準によって判断されます。裁判所は、一九八○年の福岡高裁判決以来、二〇〇四年の最高裁判決まで一貫して現行認定基準は狭すぎて患者を救済するものとなっていない点を厳しく批判しています。