しんぶん赤旗2006年4月4日

水俣病50年 沈黙を破って 下

国の過ちを正したい


 「いままで恥ずかしかったばってん…。家族に水俣病がおれば、結婚もできんし、いいだせなかった」
 旧御所浦町の海上タクシー運転手、山崎通治さん(五三)は目に涙をためました。

重かった3字

 通治さん自身も、手足のしびれに苦しんでいますが、案じているのは、兄、和秋さん(五七)の今後です。「兄貴が寝たきりになったら、おれが面倒見るしかなかけん…」両親は亡くなり、通治さん家族が兄と一緒に暮らしています。

 和秋さんは、昭和二十年代初め(一九五〇年代末)ごろから症状が出てきました。手足がうまく動かせなくなり、言葉も不自由に。母のことは「あーん」、父のことは親指で示していたといいます。若いころは、釜炊きなど家事もこなしていましたが、年々症状が重くなり、いまでは左手や両足の関節は固まり伸ばすことができず、健常者が歩いて十五分の道のりも三時聞かかります。

 和秋さんはこれまでの半生で、島の外に出たのは、本渡市(現天草市)の病院に入院した母親(故人)の見舞いと、水俣協立病院で水俣病検診を受けたときの二回しかありません。

 診察した高岡滋医師(水俣協立病院総院長)は「現在の症状をみたとき、視野狭さく、運動失調、全身の感覚障害がはっきり認められるので、水俣病であることは間違いない」と語ります。

 通治さんはいいます。「水俣病の三文字が重かった。友だちが遊びに来るのがいやで、他人に兄貴がいることを知られたくなかった」

 和秋さんの存在を、家族みんなで隠してきました。
 「数年前の母親の葬式にも、弔問客が帰った後、こっそり焼香させていた。兄貴に申し訳ない。勇気がなかった。もう恥ずかしくなかけん…」と話します。

 通治さんは、一年前勇気を出して検診を受け、裁判の第一陣原告にも加わりました。和秋さんも提訴を準備しています。

 「おれは結婚して、子どももつくった。でも兄貴は、水銀のためにこうなった。一生涯このまま過ごさなければいけない。水俣病でまだ困っている人がいる。どうして償ってくれないのか。認めてもらうには裁判でたたかうしかなか」

患者の数さえ

 一昨年の最高裁判決は、水俣病についての国の責任を明確にし、現行の認定基準を否定しました。しかし、国は患者を切り捨てる認定基準を変えようともせず、認定申請者以外に、どれだけの水俣病患者がいるかさえ、つかんでいません。

 熊本県は、不知火海沿岸に居住歴のある住民は四十七万人と推計し、全員の健康調査を国に求めています。

 高岡医師は「いまの時点で少なくとも、メチル水銀に汚染された魚を多食したことと、手足の感覚障害がある者は、ただちに水俣病と認めるべきだ。原因がわかっていながら解明しようともせず、患者に症状の周知もせず放置した国のあやまちを正すことが必要です。国が沿岸住民全体の健康状態を明らかにし、すべての水俣病患者を救済すべきだ」と指摘します。(山本弘之)(おわり)

すべての患者救済を
大石利生・不知火患者会会長の話
 公式発見五十周年で終わってはいけない。五十年たっても終わっていないことこそ、再確認しなければいけない。私たちの会の人だけ、認定申請者だけ、原告だけを救済すればいい問題でもない。本人が自覚症状を訴えない限り表に出てこない。国の責任は、チッソや熊本県と同じく確定しているんです。名乗り出た者だけでなく、国がみずから、沿岸住民すべての健康調査をして、すべての水俣病患者を救済すべきです。国がやる気になれば、必ずできるのですから。