しんぶん赤旗2006年5月2日
水俣病50年@
胎児性患者の思い
私も働きたい
水俣病の公式確認から五十年がたちました。いまだに水俣病の認定を求める被害者が相次いでいます。被害地域は熊本、鹿児島両県にかかる不知火海全域に、認定申請者は若い世代にも及んでいます。被害の実態を見ました。
「公害はぼくたちで終わりにしてほしい」。熊本県水俣市の永本賢二さん(四六)は訴えます。母親の胎内で水銀の暴露を受け、生まれた瞬間から水俣病患者として生きてきた胎児性患者の一人です。その人生には、“終わらない水俣病の五十年”が凝縮されています。
■伝えたい
永本さんが自分のことを語り姶めたのは、三年ほど前。二〇〇三年の「水俣病慰霊式」で患者遺族を代表して祈りの言葉をのべたころからです。その理由を「子どもたちに本当のことを伝えたいからです」と話します。
永本さんは、水俣市のチッソ専用港・梅戸港のそばで生まれ育ちました。自宅の縁側から港のクレーンが見えました。
アセトアルデヒドの原料となる石灰石を積んだ貨物船が着き、それらを運び入れるクレーンの音は「子守歌がわり」でした。
一九八○年代にクレーンはなくなりましたが、永本さんの原風景になっています。
いまも、母親と二人で、梅戸港のすぐ上の小高い丘に住みます。あたりにはサラダ玉ネギの畑が広がり、午後六時になると、市の広報スピーカーから「ふるさと」のメロディーが流れます。
胎児性患者の存在が報告されたのは公式発見から六年以上たった一九六二年。報告後も初めのころは、多くの胎児性患者が小児マヒや脳性マヒとされました。
永本さんは、首のすわりが遅く、手足の動きが不自由で、言葉ももつれ、初めは脳性マヒといわれました。原因がはっきりせず、いくつもの病院に通い、小学校入学前には湯の児リハビリ病院に入院していました。
■誇りが…
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父親は、チッソの労働者でした。第一組合に所属し、なんども上京し賢二さんを水俣病と認めるように国と交渉しました。小学校の前が組合事務所。賢二さんは、校歌より早く「がんばろう」の歌を覚えました。
「梅戸港に大きな船が入ってくると、お父さんの会社の船だと誇りに思った」
校歌に、チッソのことがうたわれているのも誇りでした。
♪うすくれないに華咲く煙…あけくれまわるベルトのひびき
工場の煙、昼も夜も動き続ける機械のベルトの音。
それは、カーバイドをつかった化学工業から石油化学工業に転換する資金を生み出すために大増産に次ぐ大増産を続ける姿でもありました。
「ぼくはチッソの水銀で被害を受け、チッソは加害者だ。でも父はそのチッソで働いている…」偏見や差別もありました。「家族に心配をかけさせたくなくて、いえないことがいっぱいあった」そんなとき、クレーンは、父や母にも話せない悩みを話しかける相談相手でした。
母親のマサエさん(八四)は、そのことを最近知りました。語り尽くせない苦労がまた一つ増えた思いでした。
一九七〇年、賢二さんは胎児性水俣病と認められました。
その年しばらくして父が亡くなり、高校三年生だった姉は大学進学をやめて働き、母と姉二人で家計を支えました。
■父の思い
胎児性患者たちは、四十代から五十代を迎えています。通常の加齢では考えられない身体機能の低下もみられます。
親の年齢は七十代以上になり、「私たちが死んでも、この子が安心して生きていけるように」と訴えます。
患者家族の切なる思いに対し、今年一月、加害企業チッソは創立百周年のあいさつに「(水俣病)問題は終息に向かいつつある」と書きました。
賢二さんは「まだまだ苦しんでいるのに、なぜそんなことをいうのか」。普段は見せない怒った表情をあらわにしました。
通所授産施設「ほっとはうす」の加藤タケ子施設長は、働く場の保障、グループホームなど住む場や介護体制の確立を求めています。「胎児性患者も、人間として当たり前に自立したいんです。五十代はまだ青春。いま、働く場や住む場を確立すれば、自立する新たな体験、青春の一ページを開けるんです」
「ほっとはうす」には、胎児性・小児性患者八人をふくむ障害者十二人が働いています。
賢二さんも「ほっとはうす」で、押し花などを作る仕事をしています。
賢二さんは言います。
「いくら少しのお金でも、働いて稼ぐのがいいし、働いたお金で旅行に行きたい。仕事をすると、働くきつさと、労働者の気持ちがわかる。お父さんが働いて僕たちを食べさせてくれた気持ちも同じだったんだなあと」(つづく)
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