しんぶん赤旗2006年5月3日

水俣病50年A

次世代の申請者

しびれで眠れない


 国と熊本県の賠償責任を認めた関西訴訟最高裁判決(二〇〇四年十月)以降、わずか一年半の間に水俣病の認定申請者は急増し、四千人に迫っています。しかも、大半が初めて申請する“新しい患者”です。

■初めて申請

 熊本県水俣市。チツソ水俣工場の正門近くに位置し、長く水俣病治療の中心的役割を果たしてきた水俣協立病院もこの間、二千人以上の水俣病検診をしてきました。

 「さわっているのが分かったら、いってくださいね」。診察室で目をつぶった女性(八〇)の指先に、同病院の高岡滋医師(総院長)が細いナイロン繊維(「フォン・フレイの触毛」)を押し付けます。

 六十グラムの力をかけても女性の指はナイロン繊維を知覚できません。「かなり重症ですよ」。「昔は父から『結婚できなくなるから水俣病とはいうな』といわれ、今は娘が『恥ずかしいからいわないで』という」と女性。高岡医師らの熱心な勧めで、今回申請を決めました。

 「判決後の状況は、不知火海沿岸の地域全体が汚染されていたことが、さらに明らかになったということ」。高岡医師はいい切ります。「三十六年間も水銀が流され続け、その間一度も規制措置が取られなかったのですから当然といえば当然なのですが、被害規模の大きさが今になって明らかになりつつある」 受診者の九割に感覚障害が見られます。「私たちの基準では水俣病です。少なく見積もっても二〜三割は環境省の認定基準も満たしている」といいます。

■偏見のなかで

 高岡医師は、受診者急増の理由に、水俣病をめぐる社会環境とその変化をあげます。
 「以前は、うっかり『検査しましょう』と言おうものなら、“協立病院は水俣病をつくろうとしている”“あそこの病院に行けば水銀を注射される”といわれたものです」。

 「ニセ患者」「金欲しさ」など、激しい偏見が患者の口を閉ざしてきました。
 しかし、症状の進行や「患者掘り起こし」の粘り強い運動のなかで被害者も声をあげ始めました。

 水俣市から車で三十分。同県芦北町の一角に全二百戸の大半が申請している地域があります。今回初めて申請したミカン農家の男性(五〇)は、まさに“次世代の申請者”でした。

 「手足の指に低周波治療器でジリジリやってるようなしびれが、二十四時間ある」といいます。ひどくなったのは四、五年前から。「字を書くと手が震える。仕事で長く使うと『からす曲がり(こむらがえり)』が起こりやすくなるし、夜は眠れない。今日眠れんば、明日はやっと疲れて眠ると」

 十代まで半農半漁の暮らし。一日二回は不知火海の魚を食べていました。「自分でも釣って食べよった。高くて肉とかは食べられんかったし」

 これまで申請をためらったのは、「子どもが小さかったから」。就職や結婚の妨げになることを恐れたのです。「おそらく今度申請した人は全部そうだと思う」。子どもたちもすでに自立しています。

 「とにかく我慢できる状態は超えとるもんですから、治療しなければと思てですね。ああもう、裁判じゃないと解決しないのかなあと、そう思う以外なかですよ」

 水俣病被害者の会全国連絡会の中山裕二事務局長は、世代を超えた申請者の広がりに「これまで、かなり『患者掘り起こし』をやってきたという自負があっただけにショックだった」といいます。「第三次訴訟(一九八○年提訴)のころ、原告宅を訪ねると、黙って親の話を聞いていた青年たちがいた。今回申請しているのは彼らなんです。この五十年、放置されてきた。今こそ救済されなければなりません」(つづく)