しんぶん赤旗2006年5月5日
水俣病50年C
出水でも
解決のため生きたい
小川幸男さん(四五)は鹿児島県出水市前田で五人兄弟の末っ子として生まれました。 自宅の前は不知火海。「大潮・中潮の時は三百層も潮が引く、今もこの前田海岸に出て魚介類を採って食べている」と話します。
「家が貧しく、海のものが主食でした。台風の後は海岸にイカや魚が打ち上げられ、それがごちそうでした」と小川さん。
■失敗ばかり
小さいころからとても運動が苦手でした。小学校のころ、走ると転び、手足を真っすぐに伸ばすことができず、体操をしても「タコの踊り」と同級生に笑われ、「私も母も運動会が大嫌い」でした。
中学校では自転車通学。ふらふら運転で自動車とぶつかったり、側溝に落ちたりで、生傷が絶えませんでした。
小川さんは、工業高校の電気科に進みました。足ががくがくして高いところの作業ができません。手足が震えてコードが接続できない、ひもが結べない――二年生でやめさせられました。
その後、大工の見習い、タイつりの漁船、電気部品の仕事、溶接工など転々としまし
たが失敗ばかり多くてやめさせられました。
小川さんは小学校高学年のとき、一度だけ父親に自分も水俣病ではないかと思い、「申請をしたら」と言ったことがあります。しかし、当時は水俣病は奇病と言われました。「親せきや近所から村八分にされる。おやじはそれに負けたんだ」と語りました。
■新たな申請
一九九五年の政治解決のころ、小川さんは、思い切って母親と一緒に申請をしましたが、ハケで、二回触っただけで患者とは認められませんでした。
「母と私を助けてくれたのが水俣病不知火患者会の中嶋敏子さん(現日本共産党出水市議)です」と話す小川さん。
「私の周りには、私と同じような入がいます。だから私はその人たちに同患者会のチラシを転びそうになりながら震える手で配ります」
小川さんは一見普通の人に見えます。しかし、話し始めると唇とあごの間がぴくぴくとけいれんしています。歩き始めるとすぐに汗が噴き出します。物をよく落とします。
小川さんが同じ集落に五回、六回と配布した不知火患者会のビラが、申請をためらっていた人々の心を開き、数十人の入が新たな申請者となりました。「これからの人生は水俣病の解決のために生きてみたい」。小川さんはポツリと語りました。(つづく)
九五年政治解決
一九八○年提訴の国家賠償請求訴訟(第三次訴訟)で、五高裁・地裁の和解勧告、患者などの運動により、村山首相が総合対策医療事業、地域の再生・振興などの政府解決案を示して謝罪。
原告はこれを受け入れ、一万二千人以上の被害者救済を実現しました。 |
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