しんぶん赤旗2006年5月7日

水俣病50年D

命がけのたたかい

勝ち取られた“救済”


 熊本県水俣市。「ばってん、死んでしまうもん」。一九八○年五月から始まった国の責任を問う水俣病第三次訴訟の最中、何の補償もないまま長年にわたり放置されてきた高齢の原告患者が、次々力尽きていきました。

 裁判期間中、熊本県の原告千三百七十七人(全体で二千二百人以上)のうち、実に四百人以上が亡くなっています。

■和解勧告が

 「一週間に二、三人ずつ死んでいったなあ。最高裁までいけば、まだ何年もかかる。
これはだめぽいと思った」

 原告団の副団長を務めた鶴崎次信さん(六六)は、「ひどか耳鳴りが四六時中続く」体をゆっくり動かしながら語ります。ギリギリのたたかいが続きました。

 「原告のほとんどが死亡した後に、どんなすぐれた解決案がしめされたとしても、それは無に等しい」(熊本地裁裁判長)。患者らの運動と世論を背景に一九九〇年、東京、熊本、福岡、京都の各地裁と福岡高裁の五裁判所で、裁判史上前例のない和解勧告が出されました。

 が、国は「行政の根幹にふれる」としてかたくなに拒否しました。水俣病被害者・弁護団全国連絡会議は「国は和解のテーブルに着け」を合言葉に、衆参の全国会議員に要請。地方では、熊本県で95%、京都府91%、新潟県の86%をはじめ、多くの地方議会が国に早期解決を求める意見書を採択しました。

 後に同会議を改組・継承した水俣病被害者の会全国連絡会の中山裕二事務局長はいいます。「環境庁(当時)前では、患者ら三千人が『人間の環』をつくり、百万人署名、首相官邸への直訴と次第に国を追いつめていきました。九五年十二月、時の村山内閣が示した『政府解決策』は、『生きているうちに救済を』と命がけで立ち上がった原告患者と全国からの支援によって勝ち取られたものでした」

■正式に謝罪

 「総合対策医療事業」「地域の再生・振興」などの施策が決まりました。救済対象は、裁判をたたかった原告患者にとどまらず、一万二千三百七十人の被害者に及びました。

 特定の公害事件で、政府が正式に謝罪したのも初めてのことでした。

 「国が本気で推し進めてきた『患者大量切り捨て政策』を転換させ、切り捨てるはずだった人々に補償させた意義は大きい」というのは、水俣病訴訟弁護団の板井優弁護士。「国の責任を明記させることはできませんでしたが、補償の財源が国の一般会計だったことは、事実上の損害賠償だった」

 それから九年。二〇〇四年十月の関西訴訟最高裁判決は、水俣病の発生と拡大について、国と熊本県の賠償責任を明確に認めたうえ、国の認定制度で棄却された申請者のなかに水俣病患者がいることを認めました。

 「国の責任がもはや争う余地のないものであることを法的にも明らかにした」と板井弁護士。
 「国相手の裁判。勝つと思ってやった人はだれもいなかった。しかし、歴史が教えているのは、圧力で一時的に押しつぶされているように見えても、被害を押しつぶすことは、もはやできないということだ」(つづく)