しんぶん赤旗2006年5月8日

水俣病50年E

先が見えない時

共産党がいてくれた


 「やーっ、共産党は最初から最後まで、よう頑張ってくれた。宣伝ば必ずな。これはもう感心しとった」

 水俣病第三次訴訟原告団で副団長を務めた鶴崎次信さん(六六)=熊本県芦北町=の実感です。だれも勝てると思わなかった国家賠償請求訴訟。原告団は、首都東京での行動を重視し、鶴崎さんらは“首都オルグ”で何十回も上京しました。

■上京して宣伝

「あれは疲れたよ」。生活の糧である漁を休んでの上京。ビラを受け取る人も少ない東京駅前や霞が関などでの宣伝に、熊本と東京の日本共産党員が同行しました。当初、原告団は財政的にも厳しく、旅館代がない冬の寒い夜、争議団の事務所に泊まったことも。「先が見えん時に、ずっといっしょにいてくれたのが共産党だった」

 「ほかん党は冷たかね」。要請に訪れた国会の議員会館では、居留守を使う議員、選挙の話を露骨にされたり、「“わが党は水俣病を解決する力はありません。ほかの政党にお願いしてください”といわれよった」。

 様子が変わったのは判決(一九八七年三月、熊本地裁)直前からでした。「解決する前んなって、先の見えとるもんやけん、ほかの政党は竸って出てきた。そんで、共産党が見えんようなった」と笑います。

■支配の壁に

 「『患者掘り起こし』は、被害者救済運動とともに、チッソ支配の壁に挑み、地域を変革するたたかいでもあったのです」

 水俣市に住む林田武士さん(六八)は一九五三年から二十一年間、加害企業チッソに勤務。同時に、チッソの日本共産党支部の一員でした。

 レッドパージ(共産党員や支持者の追放・不当解雇)が荒れ狂った職場、特定政党支持押し付けの労働組合など多くの困難のなか、支部の仲間と交代で「患者掘り起こし」に参加しました。

 三交代の夜勤明けの日、支援の医師らと不知火海沿岸の集落に向かいました。歩き方がおぼつかない人を見つけると声をかけます。「あんた、診察させてくれないか」

 たいていは「くるな」「うちは関係ない」とどなられました。二回、三回と通って、ようやく「診るだけなら」にこぎつけました。

 林田さん自身、水俣病第三次訴訟原告団の一人でした。何度目かの「全国現地調査」。
患者と比較するデータを取るために、痛みを測る「ペイン・メーター」を両手、両足にあてました。しかし、何度やっても痛みを感じません。

 「こら、あんたも水俣病じゃ」。医師のことばにひざがふるえました。
 住まいは水俣川の河口付近。「タイラギやハマグリ、アサリ、カキなどが次勘死んでいった時期にたくさん食べていました。弱って河口をふらついていたスズキ、背中の曲がった魚も何の不思議も感じずに食べました」

 チッソ内では不当配転の仲間とともに労働者の権利を守り、外では水俣病問題に取り組む日々がつづきました。

 一九六三年には、水俣市議会で日本共産党が初議席を勝ち取りました。
 貴重な議席となった元山弘議員の活動は献身的でした。
 「集落が寝静まってから、患者・家族にお米などを届ける生活支援に出かけていました。議会でも懸命でしたよ」。それだけに林田さんは「どうしても党を大きくしたかった」。

 七一年四月、熊本県議会で井上栄次氏が初の党議席を実現すると、患者切り捨ての県の責任を具体的に追及した五月の初質問は「吹き荒れた“井上旋風”」(地元紙)と報じられるなど、議会を一変させました。水俣市議会では、三議席を持つようになった党水俣市議団が毎議会、水俣病問題を取り上げています。(つづく)