しんぶん赤旗九州・沖縄面2007年12月26日(水曜日)

水曜随想

グアムで見た「慰霊碑」

衆院議員 赤嶺政賢


 衆院安全保障委員会でグアムの米軍基地を調査したとき、日本軍の「慰霊碑」をたずねた。約二万余の日本兵がグアムで戦死している。そのほとんどは「玉砕」だった。碑文に目をとおしていだ与党議員の一人が、「玉砕しかなかったのか。なんで降伏しなかったのか」とポツリと感想をもらしたのが印象的だった。

 グアムの空港には「横井庄一さんが潜んでいたジャングル」の大きな案内板がかかげられている。日本人観光名所になっているのだ。元日本兵横井庄一さんは、戦後二十八年たった一九七二年にグアム島で救出された。横井さんの第一声は「恥ずかしながら生さて帰ってまいりました」だった。「玉砕」した戦友への遠慮だったのだろうか。

 グアムもサイパンもそして沖縄も「玉砕の島」だった。沖縄戦の映像のなかに白旗をかかげて投降してくる幼い少女の写真がある。

 「白旗の少女」として話題を呼び、本人が名乗り出てきた経過もある有名な記録映像だ。その少女がかかげる白旗の後から数人の敗残兵がついてくる。この兵士らは無事投降できただろうか。沖縄戦での日本兵の投降者は少ない。「生きて虜囚の辱めをうけず」という「戦陣訓」によって支配されていたからだ。

 沖縄に押し寄せた米軍は五十万余。正規の日本軍は七万余しか配置されてなかったので、戦闘力不足を補うために、訓練もうけていない県民を防衛隊や義勇隊、学徒隊として戦場に動員した。最後は足腰の立つものは老若男女を問わず斬(き)りこみ隊、弾薬運びなどに動員した。伊江島では赤ちゃんをおぶった母親まで斬りこみ隊として動員した。戦場に動員されなかった一般住民にも「軍官民共生共死」の精神が叩(たた)き込まれた。

 「玉砕」や「戦陣訓」は非戦闘員である住民にまで強制されていた。追い詰められた住民の選択肢に「投降」は許されなかった。

 沖縄戦は、本土決戦を一日でもさきのばしするための持久作戦で.あり、終戦後の国体護持(天皇制の維持)の交渉を有利にすすめるための住民をまきこんだ「捨て石作戦」だった。

 太平洋戦争でも無数の日本の兵隊に「玉砕」を強い、餓死に追い込んだ。天皇制軍隊の本質をあいまいにすることは許されない。師走の寒風のなか、そんなことを訴えながら東京、沖縄、九州をとびまわっている。

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